リーサルはどこまでかじる?

少なくとも全くかじらないという選択肢はありえない。パルクールは自己の実力証明であり、証明とは一度示して終わりではなく何度も示し続けること、かつ示し続けている間だけ有効となるものであり、そして実力の証明とは成功していることの証明であり、もっと言えば失敗していないことの証明であり、これは言い換えるなら失敗したらただごとでは済まないことを平然とこなすことである。つまりはリーサルな動きをこなすこと。こなし続けること。それこそが唯一の証明方法。それ以外に証明する方法はない。だからリーサルは必要なのだ……ここは揺らがない。

しかし俺も人間だ。練習や鍛錬が必要だし、死にたくもなければ怪我したくもない。死傷する確率を減らすためにそもそも実践回数を減らすと考えることは自然である。安全欲求だ。防衛本能だ。年がら年中常にリーサルでいられるほどの狂人ではないし、強靭な身体も精神も備えていない。つまりリーサルに挑む頻度を考える必要がある。

ここで胸がチクっとした。俺はリーサルに「挑む」と捉えている。リーサルは俺にとって挑むものなのである。挑む?何を言っているんだ?正確に何度も、何度でもこなせて当然。当たり前。そのレベルの品質を発揮するのがトレーサーというものだ。成功率数割のギャンブルをするアスリートとは違うんだよ。100%……はありえないにしても、限りなく近づかねばならない。安定していなければならない。安定せし者は挑むか?違う。挑まない。確実にこなせる、当たり前の動作を行うことを「挑む」とは言わない。でも俺は言っている。なぜか。 まだその域に達していないのだ

パルクールして何年になる?まだ挑んでいるのか俺は。サンデートレーサーじゃないんだよ。アスリートでもなければアクターでもねえんだよ。なのにまだリーサルを飼い慣らしていないとは。死んだ方がいい。でも死にたくない。だからなるべくリーサルを避けようとする。どこまでかじる?などという馬鹿げた考え事をしてしまっている。

俺はださい。美しくない。みじめだ。まだまだ証明できていないのだから。

けれど、死にたくないんだ。

じゃあリーサルなんてやめてしまえばいい。そもそもパルクールは危険なものじゃない。リーサルに一切噛まないトレーサーも腐るほどいる。そうなればいいじゃないか。……ダメだ。リーサルじゃない世界だけでは足りない。非リーサルとリーサルとの間は、リトルと非リトルの間くらいの大きさなんだよ。非リトルパルクールをするトレーサーが今更リトルパルクールだけの世界に戻れるか?戻れやしない。できるとしたら、障害を負うなどしてそうせざるをえなくなった時だけだろう。トレーサーの精神力はそこまで堅固ではない、結局のところは自分が今いる身体動作のレベルを満たすこと、満たし続けること、さらに向上させることが第一なのだ。

だからリーサルはやめられない。そもそも俺は証明したいんだから、やめるわけにはいかない。他の証明方法も見つからないからな。

けれど、リーサルが怖いんだ。死にたくないんだよ。

俺はどうすればいい?恐怖を麻痺させたゾンビとなるべきか。証明を諦めたチキンとして見せかけのリーサルのみ展開するべきか。それとも日によってやりたいだけリーサルすればいいか。わからない。だけど一つだけわかる。俺はまだ、達していない。達しさえすれば、悩むことはなくなる。麻痺ではなく消失。挑むという概念、リーサルが死をもたらすという道筋そのものが消えてなくなるのだ。熟練するとはそういうことだ。トレーサーは熟練の範囲内でのみ動くからこそ安全で、安定していて、正確で、そして美しいのだ。

なら、やることは単純だ。その域に達させるだけだ。今までやってきたように。