自由とは何か。わからなくなってきた

俺は自由になりたい。そのための方法の一つとして「あらゆる環境で思い通りに動くこと」がある。つまりはパルクールだ。俺はパルクールという名前を知る前からそんな自由に憧れ、実現せんとしてきた。マリオの足元にも及ばないが、人間にしては贅沢なほどの自由を手にしたと自賛している。

しかし、その手段に目を向けてみると、俺はがんじがらめだ。身体を維持・向上させるために数々のルールや習慣やメニューを作り込み回している。精神を乱さないために井の中から出ようとしない、首も出さない。誰もが手を出すであろうフリップにさえも手を出さず何でもプレシで解決しようとする。そのためにスタイルも哲学も捻じ曲げ、過剰なまでに正確性と持続性を追求する方向性に切り替えた。自分で自分を拘束し、制限し、押し込める。俺のカッチカチだが、がっちがちなのだ。

世のトレーサー達を見ていると、俺ほど自由には動けてはいない。自然はおろか、公園の遊具さえもまともに扱えないだろう。代わりに彼らは屋内でパルクールという名の体操をしている。……しかしその評価はあくまで俺が考える自由でしかなくて、彼らが考える自由とはおそらく違う。そして彼らから見れば、自由であるはずの俺は不自由に見えているかもしれない。

大切なのは自分がどう思うか。わかってる。俺は自由だ。俺にとっての自由は場所の多様性であって、技の多様性ではない。一つの場所であらゆる技ができるようになることよりも、一つの技であらゆる場所を動けるようになることを目指す。そう在ろうとすること。在ること。それこそが自由だ。

なのに、俺は混乱している。俺はその「場所の多様性」という自ら見出したはずの定義に納得できていない。これは本当に自由なのか、と今更疑い始めている。

何だ。何が起きている。俺の中で何が起きているのだ?