フリップはしない。してはいけない。

俺はフリップはしない。

非効率的だからだ。俺は元々効率的な移動を追い求めるマンだった。この移動効率追求を通じてパルクールというものを理解してきたつもりだし、そうすることでしか理解することができなかった。もちろん今は社会人になるまで生きてきたこともあり、かなり人生知見も溜まっているであろうから、他のやり方も可能だと思う。それは追々やればいい……と言いたいところだが、それでも、フリップは、ダメなんだ。フリップが最も楽しくて効果的なトレーニングであることは疑う余地がない。でも、怖い。自分を正確に回す技術など効率的移動には、つまりは俺が今まで積み重ねてきたパルクールには不要だ。どころかジャマですらある。俺のパルクールは繊細なんだ。余計な感覚は持ち込ませたくない。あれもこれも飼えるほどの器量は俺にはない。だから球技も下手。昔から。

正確に制御できないからだ。俺は自分に掌握できそうな動きだけを選び、採用している。そうしないと死ぬからだ。俺はどこだろうと安定して動き続けたい。落ちたら身体的に死ぬとしても。あるいは社会的に死ぬとしても。ハイリスクだから最初からやりません、では跳べないんだよ。歯がゆいんだよ。目の前には天文学的な数の障害物が、スポットが、道があるというのによ。そいつらを貪りたいんだ。貪るためには、それだけの実力が必要だ。もちろん所詮は人間だし、俺は決してセンスを持つ者でもない。たかが知れている。だから考えた。どうやれば最大限貪れるのかを。そしてそれは選択と集中だと結論付けた(というより付けていた)。フリップは、俺の選択から外れたのだ。俺が選択してきた動きは、どれも直感的に、感覚的に、自然に、人間という生物の延長上で行えるものばかりだ(そんな意図はないがあえて言語化するとこのような表現が近い)。フリップは、そうじゃないということなのだろう。

承認されないからだ。フリーランナーがありふれた世界はとても競争が激しい。俺はあいつらのように輝けない。そんな要領もないし、モチベーションもない。そのくせ承認欲求だけは人一倍だ。悔しくて、めちゃくちゃになるのは目に見えている。羨み、妬むだけなら良いかもしれないが、俺は手を上げてしまうかもしれない。消してしまうかもしれない。何をバカなと思うだろう。俺は知っている。俺は承認を貪りし者でもあるのだ。だからこそ俺は自制する。しなければならない。フリップを封じ、フリーランニングからあえて距離を置き、哲学と理屈で蓋をする。そうやって一人の世界に篭もれば、「実は俺の方が凄いんだぜ」と自惚れることができる。現実はそうではないことなど知っているが、それでもだ。自惚れることは大事なんだ。自分を守るために。滅ぼさないために。

……そうだ。最後の理由が一番大きい。俺は、フリップに手を出せない。出しちゃいけないんだ。

ただ、楽しみでもあるんだよ。もし俺が俺のパルクールをできなくなった時。たとえば刑務所に入った時。その時は、おそらく周囲には障害物など無いであろうから、フリップで遊んでみてもよいと思っている。それがパンドラの箱だとは感じつつも、おそらく俺は開けるだろう。そんな気がする。

そんな俺だからこそ、やはり日頃から抑えねばならぬ。ならぬのだ。