環境とは何か

トレーサーは環境を扱うものだ。ではその環境とは一体何なのだろうか。もちろん答えは一意ではない。トレーサー次第だろうし、そうあるべきだ。つまりこの問いは「俺というトレーサーはどんなものを環境として扱うか」と問うている。

俺の答えはシンプルで「なんでも環境になりえる」……これだけだ。

もちろんだからといって何でも使っていいわけではない。たとえば不法侵入や器物損壊はNGである。が、俺としては、そういったものを最初から「法律やマナーや一般常識としてNGなものは省く」としたくない。あらゆる可能性を、選択肢を考えたい。視野に入るもの全てを考慮したい。その結果、たとえ動けなかったとしても、少なくとも頭を動かして捉えることはできる。何かしら生かすことができる。たかが妄想でも積み重ねればモチベーションの差になる。たかが想像でも積み重ねればバリエーションの差になる。たかがシミュレーションでも精度の差になる……もはやたかがではないが。

なんだって環境であり、何にでも使うことができるのだ……これはとても緩い定義である。いや定義ですらない。が、それでいい。俺は自由に動きたいんだし、トレーサーはそう在るべきだ。

……しかし、そうだろうか。少なくとも Original Parkour では環境として自然よりも人工物を想定しているし、技体系もそうなっている。これは Wall があるのに Tree や Rock がないことからも自明だ。そしてそれに影響を受けてきた俺もまた、それに染まっているはず。つまり俺は「いかなるものも環境になりえる」と言っておきながら、実際はそうではない、特に人工物だけを無意識のうちに想定してしまっているのではないか。そんな危惧というか偏りがあるかもしれない。

もう少し具体化する必要があろう。今のままでは何も言ってないのと同じ。むしろ具体化するのが怖くてあえて「いかなるものもなりえる」などと言い訳して逃げている節さえある。ダメだ。逃げるな。

まず、俺が扱う環境はいつだって俺が生きている場所が舞台になる。普段住んでいる地元もそうだし、旅行すれば旅行先がそうなる。ここで肝心なのは、俺が行くつもりのない場所は環境にはなりえないということだ。たとえば 外国は想定していない。だから俺にとって環境とは 俺が実際に過ごしている場所や、過ごす可能性のある場所のすべて となるだろうか、とりあえずは。

次に進もう。いくつかの観点で考えてみる。

  • 屋内屋外は? → どちらも動く。学校だろうが職場だろうがモールだろうがお構いまし。ただ屋内は問題無く遊べるケースが少なく動けないことも多い
  • 自然は? → 動く。海や川で岩を相手にしたり、山で木や崖を相手にしたりする。
  • 天候は? → 強くないなら雨なら動く。雪は雨よりも苦手。強風でも動くことがある。大荒れだと動けない。
  • 時間帯は? → 早朝や深夜も動く。見えるなら暗くても動ける。しかし明るい場所で動く方が好き。
  • 通行人数は? → 迷惑がかからないなら動く。人目は気にしない。が、しなければならないケースもある。観光地で遠慮なく動けることもあれば、一人しかいないのに動けないこともある。ケースバイケース。

……観点が発散しそうだ。が、意外と制限が多いことに気付く。共通する意図は できるだけたくさん楽しめるように汎用性を高めている だ。たとえば多くのトレーサーは雨では動けないが、それでは雨天時に為す術がないので俺は動けるようにした。

ここまでを踏まえると、こうなるか。

  • 環境とは、俺が実際に過ごしている場所や過ごす可能性のある場所のすべて
  • しかしすべてを扱えるほど俺は万能ではないし都合もある
  • なるべくたくさん扱えるように工夫をしている

だいぶ見えてきた。あとはその工夫をどんどん洗い出していけば、現時点で俺が捉えている「環境」というものの実体が可視化されるはずが。面倒なのでやらないが。

とりあえず知りたいことは再確認できたので良しとする。俺はなるべくたくさん遊びたいんだ、動き続けて、楽しみ続けたいんだ。遊ぶのみ必要な環境も、そうでなくてはならない。いや、環境自体はすでにそうなっているはずで、問題は俺の実力にある。そういうことだ。

トレーサー自身にとっての「環境」。それを問うことでそのトレーサーの実力(というより能力か)がわかると言っても過言ではない……思えば当たり前のことか。

手段を目的にしないということ

俺はパルクールがしたい(トレーサーで在りたい)のであって、社会に適応したいわけでもなければ人付き合いがしたいわけでもない。それらはあくまで手段にすぎない。パルクールをするためには生きねばならない、生きるとは社会で生きるということ、また人付き合いも多かれ少なかれ避けられない、だから手段なのだ。パルクールをするために必要な手段として、必要最小限に行うだけでいい。それ以上は要らない。

しかしそう考えているのは俺だけだ。トレーサー達はパルクールが一番といいつつ、社会への適応も、人付き合いも、必要最小限以上に行っている。そしてそれをパルクールだとぬかして正当化している。パルクールには友達も、恋人も家族も要らないはずなのに。Family?それはオリジナル寄りのパルクールだ。ADD だ。Original Parkour だ。俺にとってのパルクールはそれじゃない。尊重はするが、依存はしない。俺がやりたいパルクールじゃないのだから。

だから気を引き締めよ。彼らに毒されてはいけない。俺は俺のパルクールを追求するトレーサーなのだ。

PK, FR, ADD とは何か

パルクールは四つある

Original Parkour。先人が考えるパルクールで、いわゆる ADD と呼ばれるもの。競技化やメディア化の波により圧されつつあるものの、トレーサー達はこれを知っている、知ろうとしている、尊重し、守ろうとしている、継承しようとしている。とはいうものの、直接彼らと共に過ごさない限りは、ネット上で動画や文章を見つつ、あるいは直接過ごしたトレーサーから又聞きしつつ、自分の経験と重ねて解釈するくらいしかできないがゆえ、実体も実態もいまいち理解できていない、というのが正直なところだ。

Raw Parkour。これは最も広域なパルクールの概念であり、Original Parkour をも含んでいる。全てのパルクールはこれに含まれている。最も上位の概念、というよりカテゴリと呼ぶべきだろうか。俺が長らくパルクールを続けて思ったのは、パルクールには多様性があるということ(Original Parkourもその一つでしかない)だ。ならば、それら全ての要素を包含した概念があってもおかしくはないし、むしろ便宜のために存在するべきだ。俺はそう思っている。信じている。だから Raw Parkour とは何なのかという思索は続ける。

My Parkour。これは俺のパルクールだ。俺が、俺による、俺のためのパルクール。俺が追求したいパルクールだ。もちろんパルクール無関係の事物をパルクールだと断定するのは論外であるため、Raw や Original は尊重することになる。というより、そこをとっかかりにしないと何もできない。俺はゼロから何かを生み出せるほどの偉人ではない。そんな俺の My Parkour は個に閉じている。いわゆる Family という概念はない。また道の創造や環境への適応、特に到達と移動効率を前提とした正確性・安定性に主軸を置いているため、アクロバット全般が入り込む余地もない。要するに昔パルクールは効率的な移動だと言われていた時代の価値観が色濃く反映されている。俺にとってパルクールとはそういうものだったんだ、それが一番しっくりくる解釈だったんだ。

Free Parkour。これはいわゆる FreeRunning と呼ばれるものだ。移動ではなく利用。単に環境を利用して動くことを指す概念であり、その広さのおかげでトリッキングも体操も格闘技もダンスも包含できる。文字通り自由に動ける。これは Original Parkour に馴染めなかった、あるいは誤解して、動くことや競うことの楽しさに魅せられた者達が、自身の行為をパルクールとして正当化するために発展してきたものだ。元々はそんな意図ではなかったが、結果としてそうなった。

PK, FR, ADD

PK と FR と ADD はどれも同じ概念だと言われているが、違う。

俺はそう思うし、そうあるべきだ。実態は少なくとも PK = FR = ADD ではないのだから。各々には定着したニュアンスがあるのだから。

My Parkour の呼び名は?

では残る一つ、My Parkour は何と呼べばいいかだが、呼ばなくて良い。なぜなら My Parkour は俺の、俺だけのパルクールなのだから。俺だけが追求するものなんだから。他者と共有する必要がないから、名前も要らない。もし記録等のために言語化が必要なら「俺パル」など適当な名前でも付ければ済む。

リーサルはどこまでかじる?

少なくとも全くかじらないという選択肢はありえない。パルクールは自己の実力証明であり、証明とは一度示して終わりではなく何度も示し続けること、かつ示し続けている間だけ有効となるものであり、そして実力の証明とは成功していることの証明であり、もっと言えば失敗していないことの証明であり、これは言い換えるなら失敗したらただごとでは済まないことを平然とこなすことである。つまりはリーサルな動きをこなすこと。こなし続けること。それこそが唯一の証明方法。それ以外に証明する方法はない。だからリーサルは必要なのだ……ここは揺らがない。

しかし俺も人間だ。練習や鍛錬が必要だし、死にたくもなければ怪我したくもない。死傷する確率を減らすためにそもそも実践回数を減らすと考えることは自然である。安全欲求だ。防衛本能だ。年がら年中常にリーサルでいられるほどの狂人ではないし、強靭な身体も精神も備えていない。つまりリーサルに挑む頻度を考える必要がある。

ここで胸がチクっとした。俺はリーサルに「挑む」と捉えている。リーサルは俺にとって挑むものなのである。挑む?何を言っているんだ?正確に何度も、何度でもこなせて当然。当たり前。そのレベルの品質を発揮するのがトレーサーというものだ。成功率数割のギャンブルをするアスリートとは違うんだよ。100%……はありえないにしても、限りなく近づかねばならない。安定していなければならない。安定せし者は挑むか?違う。挑まない。確実にこなせる、当たり前の動作を行うことを「挑む」とは言わない。でも俺は言っている。なぜか。 まだその域に達していないのだ

パルクールして何年になる?まだ挑んでいるのか俺は。サンデートレーサーじゃないんだよ。アスリートでもなければアクターでもねえんだよ。なのにまだリーサルを飼い慣らしていないとは。死んだ方がいい。でも死にたくない。だからなるべくリーサルを避けようとする。どこまでかじる?などという馬鹿げた考え事をしてしまっている。

俺はださい。美しくない。みじめだ。まだまだ証明できていないのだから。

けれど、死にたくないんだ。

じゃあリーサルなんてやめてしまえばいい。そもそもパルクールは危険なものじゃない。リーサルに一切噛まないトレーサーも腐るほどいる。そうなればいいじゃないか。……ダメだ。リーサルじゃない世界だけでは足りない。非リーサルとリーサルとの間は、リトルと非リトルの間くらいの大きさなんだよ。非リトルパルクールをするトレーサーが今更リトルパルクールだけの世界に戻れるか?戻れやしない。できるとしたら、障害を負うなどしてそうせざるをえなくなった時だけだろう。トレーサーの精神力はそこまで堅固ではない、結局のところは自分が今いる身体動作のレベルを満たすこと、満たし続けること、さらに向上させることが第一なのだ。

だからリーサルはやめられない。そもそも俺は証明したいんだから、やめるわけにはいかない。他の証明方法も見つからないからな。

けれど、リーサルが怖いんだ。死にたくないんだよ。

俺はどうすればいい?恐怖を麻痺させたゾンビとなるべきか。証明を諦めたチキンとして見せかけのリーサルのみ展開するべきか。それとも日によってやりたいだけリーサルすればいいか。わからない。だけど一つだけわかる。俺はまだ、達していない。達しさえすれば、悩むことはなくなる。麻痺ではなく消失。挑むという概念、リーサルが死をもたらすという道筋そのものが消えてなくなるのだ。熟練するとはそういうことだ。トレーサーは熟練の範囲内でのみ動くからこそ安全で、安定していて、正確で、そして美しいのだ。

なら、やることは単純だ。その域に達させるだけだ。今までやってきたように。

定住族か、転勤族か

私は会社という名の村に属している。この村はとても広い。その気になれば全国に移りゆくことができる。だから私には定住以外にも転勤族という選択肢がある。

さて定住と転勤、どちらが良いのであろうか。

私は定住を良しとしてきた。なぜならスポットとは広く浅く味わうものではなく、狭く深く味わうものだからだ。私のこの仮説は正しかったと確信している。たかが一都道府県の、一市町村でさえもまだまだ遊び尽くせていないのだから。それにこのまま一生ここで過ごすのも普通にアリだと考えている。だからこそ転勤というアイデアが今まで出てこなかった。

さて、せっかく出てきたのだから、検討してみようじゃないか。

……待てよ。そもそも転勤族であることは、イコール広く浅く味わうことになるのだろうか?市町村Aで深く味わい、ある程度満足したところで転勤して、市町村Bでまた味わう……このような繰り返しは可能ではないか?つまり狭く深く味わうことのリピートである。

もちろんトレーサー歴1年の時に味わうことと、歴10年の時に味わうこととではまるで意味合いが違う。後者は前者ほど濃密ではない。実際私は数ヶ月も住んでいないのに雪国パルクールを諦めている(木でしか遊べない)が、それは10年の経験があるからこそ判断できることなのだ。

なるほど。つまり私は 転勤族になる前にまずは他に深く遊べそうな世界があるかを調べねばなるまい。見つかったら、それらがある地域に転勤すればいいのだ。もちろんあえて調べずに、住んでみてからのお楽しみで先に転勤するやり方もあるが、経験的にそれが実る率は高くない。日本は広大だが、スポットの多様性までは広大ではないのだ(というより私に広大だと見出せるほどの眼と発想がないだけだろうが)。

イリーガルの誘惑

トレーサーは合法と違法の境界線を彷徨うものだ。少なくとも俺はそう確信している。魅力的な空間に限って立入禁止だったり、いとも簡単に壊れる、あるいは汚れる仕様だったりする。それは今まで問題なく使える場所ばかりを扱ってきたがゆえに、そうじゃない場所に慣れていないだけなのだという意味では当然なのだが、どうであれ、魅力的に違法になるという事実に変わりはない。

もちろん(たとえその力があったとしても)手を出してはいけないし、出そうなどと書くこともできない。しかしながら手を出したい、出せたらどんなに楽しいか、面白いか、気持ちいいか、成長できるか……と心が踊らずにはいられない。なまじ力があるだけに。

知らぬが仏。

物に口なし。

ここで「他の合法的なスポットで遊べばいい」「たとえばパルクールで食べるようにするとそういうチャンスが転がってくる」といった反論をしてきたのだが、それじゃダメだ。人工的に用意されたスポットに価値など大して無いし、何よりそれは俺が求めしパルクールではない。俺は生活の手段として存在する、ありのままのそれらをそのまま扱いたいのだ。そのまま自らをぶち込みたいのだ。力を試したい。適応させたい。そんなことに喜びを、やり甲斐を、価値を、意義を感じる。それが環境派、適応マンの俺だ。言い換えると、日頃日常生活をおくっている間に目にし続けているそいつらこそを相手にしたいのだ。

俺はどうすればいい?俺はまだ確たる答えを知らない。

パターンという名の砂粒

複数の障害物がどう配置され、どう経由して動くかという「パターン」は無数に存在する。

俺は その無限の砂丘から光り輝く砂粒を探そうとしている。昔はどこもかしこも輝いていた。一生かかっても遊びきれないよー、わくわくしすぎて死んじゃうよーと贅沢な悩みを抱えていた。老人まで生きるの大変だし25歳くらいで死ねばいいか(それまでは全力でパルクールだけする)という太く短くなライフスタイルを採用したこともあった。しかしそうはならず、俺は探し続けることを、粘ることを選んだ。

輝く砂粒は次第に少なくなっていった。似た砂粒が驚くほどに多いんだ。一度味わっただけで、視界に見える、光っていた砂粒の半分以上から輝きを失われるケースだってあった。あれは無いと思った。インチキだ。詐欺だ。水増しだ。どうして?砂粒はこんなにも目の前に、数え切れないくらいに腐るほど存在しているのに。

潮時なのか。砂丘から立ち去るべきか。何を言っている?周囲を見てみなよ。見渡すかぎりの砂丘さ。ここは砂漠だ。地平線も見えるよ。立ち去ることなんてできない。これは呪いか。いや、ただの無知なのだろう。俺は考えもせず、足を踏み入れ、進み続けた。夢中になりすぎた、盲目的だったのかもしれない。

パルクールで食べるとしたらどうだろうか

俺はお金のかからないパルクールを目指さざるを得ない くらいに要領が悪く(生活に対する)やる気(というか忍耐)も薄いのだが、ではパルクールで食べるとしたらどうだろうか、とふと思ったので書くべきだ。

まずトレーサーという名のアクターは願い下げである。何かに迎合できるくらいなら俺はこんな不器用な生き方をしていない。そもそもパルクールを始めることもなかっただろう。また、演技や人付き合いを楽しむ感性もない。「忙しいけど月100万円もらえるよ」だとしても無理だ。1000万なら……経済的に生活の利便が著しく整うから考えるかもしれない。

指導はどうか。スケジュールに基づいてシステマチックに、かつフレンドリーとかアットホームとかそういうのは無くても構わないのなら、アリかもしれない。こんな日記を書く程度には言語化という行為は嫌いではない。感覚マンだが基礎的な内容なら教えられるし、参加者各々を観察して悪い癖や非効率的なやり方を指摘・矯正させる程度ならできる(むしろこっちが需要ある気がする)。ただしそれは昔の話であって、一日両手で数えられるほどしか発声しない日もある今の俺には厳しい。が、効率的な収入源になるのであればその程度の改善は厭わない。あとは、子どもと女性の相手でないことも必要だ。まず子どもは理屈が通じないのでダメだ。全体的にセンスを持っていて、自発的にやらせれば高い満足度を与えられるという意味では楽だが、メシを食べるとなると親の存在は避けられない。教師でもあるまいし親の相手もするのは骨が折れる。想像すらできないので、その要領は俺には無かろう。それから女性だが、忌避する理由は二つある。一つは、俺が男性であり、女性の身体事情を知らないがゆえに適切な配慮ができないことだ。それでも今は少しは理解しているし、本気で勉強すればすぐに要領は得られそうではある。一つは、俺が性欲モンスターだということだ。俺の性欲は歪んでいる。学生時代も人付き合いをせずにずっとパルクールをしてきて、地形や障害物にフェチを見出すほどの逸脱も犯している。風俗嬢を障害物とみなして跳んでしまったこともあった。会社の後輩でも跳ぼうと作戦を練ったこともあった。更に言えば俺はいわゆるロリータ・コンプレックスの持ち主でもある。俺は女性と親しく接していい生き物ではない。自制する自信はあるが、憂いが無いとは言えない程度の感触ではある。よって得策ではないと判断している。しかしこの点も配慮と同様、勉強すれば要領を得るだろう。

選手はどうか。たぶん無理だろう。まず芸術を競うタイプのものは主観という定性的なパラメータに依存するゲーであり俺の要領で扱えない世界である。俺は流行や平均や人気といった機微を理解することを非常に苦手とする。たぶん小さい頃から自律的自立的に動きすぎたせいだろう。それから移動効率を競うタイプだが、それなら勤まることはできる。が、そもそも俺は 承認の化物である から、競争という場に身を置くこと自体が危険なのである。勝つために、どうしても勝てない選手に妨害を働くといった発想と行動をする可能性もありえる。俺は醜いのだ。だからこそ俺は俺を閉じ込められるパルクールという名の檻に俺を閉じ込めておかなくてはならない。

研究者はどうか。イメージしているのは大学教授だが、要するにパルクールに関する研究を行う研究者としてメシを食べるのだ。研究は非常に裁量の高い仕事だし、一人でもできるから、俺にも向いているかもしれない。ただそう簡単にはいくまい。研究界隈も、少なくとも大学は会社とは少し違った人付き合いが少なからず存在するし、そもそもパルクールに関する研究は需要がない。需要がなければ職業もない。海外ならもしかすると教授が存在するレベルかもしれないが、少なくとも日本は違う。たとえば卒論すら手で数えられる程度でしかない。

Webサービスはどうか。パルクールに関するサービスをつくるのだ。しかしこれはパルクールに間接的に関われるだけである。パルクールでメシを食べるとは、多かれ少なかれ自らの身体動作が付随しなければならない。そうでなければパルクール無関係の仕事でメシを食べるのと同列でしかない。……あ、待て。もし付随が必須なら指導はどうなる?指導については……おそらく多様な参加者を観察し、また彼らと対話することで得られるヒントが多いという意味で、付随しなくてもいい、それ以上のメリットがある、という打算が働いているのだろう(上記を書いた俺は既に居ないがたぶんそうだと思われる)。なるほど、身体動作の付随は必須ファクターではないということか。ならサービス開発もチャンスがあるかもしれない。片隅に置いておく。

テスターはどうか。地形や建造物のテストを行うのである。耐久テストや侵入テストがメインか。あるいはトレーサー用スポットや設備のテストでもよい。俺はオンサイトを行えるほどに眼が整っている。テスターの資質という意味では何歩もリードしていると言ってよい。問題があるとすれば、テストという単調作業に俺の精神が耐えられるかということだ。俺は作業を嫌う。例外は、その作業が苦痛を伴い、快楽を伴い、身体に成長に繋がるケースだけだ。テストではトレーニングにはなるまい。

運び屋はどうか。近距離で、かつ相応のルートが使えるのなら、俺はどんな乗り物よりも早く目的地に到着できる(ことがある)。荷物を持ったまま動く Baggage Parkour も得意ではないが可能だし、必要なら鍛えればよい。……が、そんなニーズが、しかもメシを食べられるほどに存在するとは思えないし、作れる気もしないので、妄想でしかないか。

……思考が尽きた。リーガルなものに限定すればこれくらいだ。当然ながら簡単には行きそうにない。

しかし、簡単に行かない理由として日本のパルクール界隈が、市場が未発展だからという理由もある。仮に海外ほどメジャーになって、人口が、母数が増えたら、ビジネスチャンスとなり、メシの種になる可能性もあるというわけだ。そうなることを待ち、またそれに 備えて準備しておくことは賢い戦略 だろう。もちろん具体的にどう準備すればいいかを悟るほどの賢さは俺にはない。

自由とは何か。わからなくなってきた

俺は自由になりたい。そのための方法の一つとして「あらゆる環境で思い通りに動くこと」がある。つまりはパルクールだ。俺はパルクールという名前を知る前からそんな自由に憧れ、実現せんとしてきた。マリオの足元にも及ばないが、人間にしては贅沢なほどの自由を手にしたと自賛している。

しかし、その手段に目を向けてみると、俺はがんじがらめだ。身体を維持・向上させるために数々のルールや習慣やメニューを作り込み回している。精神を乱さないために井の中から出ようとしない、首も出さない。誰もが手を出すであろうフリップにさえも手を出さず何でもプレシで解決しようとする。そのためにスタイルも哲学も捻じ曲げ、過剰なまでに正確性と持続性を追求する方向性に切り替えた。自分で自分を拘束し、制限し、押し込める。俺のカッチカチだが、がっちがちなのだ。

世のトレーサー達を見ていると、俺ほど自由には動けてはいない。自然はおろか、公園の遊具さえもまともに扱えないだろう。代わりに彼らは屋内でパルクールという名の体操をしている。……しかしその評価はあくまで俺が考える自由でしかなくて、彼らが考える自由とはおそらく違う。そして彼らから見れば、自由であるはずの俺は不自由に見えているかもしれない。

大切なのは自分がどう思うか。わかってる。俺は自由だ。俺にとっての自由は場所の多様性であって、技の多様性ではない。一つの場所であらゆる技ができるようになることよりも、一つの技であらゆる場所を動けるようになることを目指す。そう在ろうとすること。在ること。それこそが自由だ。

なのに、俺は混乱している。俺はその「場所の多様性」という自ら見出したはずの定義に納得できていない。これは本当に自由なのか、と今更疑い始めている。

何だ。何が起きている。俺の中で何が起きているのだ?

外国には行かない

俺はたぶん外国には行かないだろう。チャンスに恵まれれば、ひょっとしたら便乗するかもしれないが、自ら行こうとするほど行動することは、たぶんない。

世界を知りたくないから。昨日 フリップはしない でも書いたが、俺は承認欲求を貪るモンスターだ。抑え込まねば死ぬ。滅びる。そうなってしまうための要因はフリップだけではない。世界を知り、トレーサー達を知ることもまた、その一因となろう。俺は基本的に日本のトレーサーしかない。彼らであれば俺は狂わない。彼らの程度は知っている。そしてそれは俺を狂わせるほど理不尽ではない。しかし世界の、海外のトレーサーは、そうではない可能性がある(AoM と J4J の2サンプルを鵜呑みしていいなら杞憂なのだが)。仮に当時時点でそうではなかったとしても、今はそうである可能性があるし、今後そうなる可能性もある。つまり、いつ滅びてもおかしくはないのだ。もちろんそれは日本国内でも言えることだが、日本に限定すれば俺は狂わずに済みそうな気がしている。なぜかは今は言語化できないが、そのうち試みることにしよう。

生活の前提が変わるから。俺というトレーサーはデリケートである。多くの制約を前提としている。日本の文化や土地や気候や国民性も例外ではない。これらが狂ってしまえば、俺というトレーサーも本領を発揮できない。俺はそれを嫌う。「トレーサーなら適応せよ」「多様な環境を受け入れよ」ごもっともである。しかし、だからといって何が何でも受け入れられるほど俺はお人好しではない。パルクールが汎用的なものであるとはいっても、たかが知れていると俺は結論している。パルクールが扱える範囲の世界、というものがある。俺の場合、それはおそらくもっと狭いのだろう。それが何かを端的に述べると、「ずっと日本で暮らしてきた」という世界観なのである。外国へ行けばこんなの簡単にひっくり返ってしまう。俺は文化の違いを、世界の違いを受け入れられるほど柔軟ではないのだ。

コミュニケーションが嫌いだから。俺は基本的に人と関わるのが嫌いだ。人は思い通りにならない。障害物とは違う。だから嫌なんだ。パルクールは自由?トレーサーならば誰もが仲良くなれる?楽しい?違う。断じて違う。誰もが河原で遊べないように、誰もが仲良くなれてそれを楽しいと感じるわけではない。少なくとも俺は違うと思っていたし、実際違っていた。何度やっても同じだった。パルクールだけじゃない。日常生活でもそうだ。そうだった。精神的な障害は持っていないはずだが、俺は何かが欠如しているのだと思われる。単に後天的に対人経験が不足しているだけだと思うが。ともあれ、日本人相手でさえそうなのだ。前提の違う外国人だとどうなるか。「観光客の外人に絡まれて楽しいだろ」 否定はしないが、あれは見世物と見物人という関係だからこそ成り立つものだ。店員とお客さんみたいなものである。それらができるからといって日常のコミュニケーションができるわけではない。それらに耐えられるからといって日常でも耐えられるわけではない。

気持ちいいから。俺はトレーサーに冷たい日本人の感性が好きだ。俺はマゾなところがあり、冷ややかな目で見られることに快感を感じるトレーサーでもある。それゆえに俺は一人でも、それも屋内ノウハウの無かった昔なのに成長し続けることができたのだと思っている。パルクール界隈では老害でありながら、未だに公園のママさん達の前で張り切ることだってできる。ヒソヒソより大きな、明示的な声を引き出すことができれば勝ちというゲームも遊んだこともある。久しぶりに遊びたくなってきたぜ。……それはともかく、気持ちいいのである。そしてそれは傍観者が日本人だからこそなのだと俺は思っている。といっても日本人以外の感性を知るほど博識でもなければ経験豊富でもないので単なる偏見であろうが。しかしそれでも、観光客や練習会で出会った外人の範囲から判断するに、やはり日本人だからこそ俺は気持ちよくなれるのだと思うのである。この件は、もっと詳しく言語化したいものだ。

他にも土地や食べ物や文化面で理由があるが、これらは日本で生まれ育ったからこそ言えることでしかない気もするので控えることとする。

「外国に行きたい理由はないの?」 ある。今まで見たことのない地形や障害物で遊べる可能性がおそらく高いということだ。だが俺は、俺のパルクールは日本国内の、もっとローカルな範囲の世界でも完結できるようになっている(いやそれさえも掌握しきれてないのが現状だが)。つまりは世界に手を広げる以前の問題だろうという話であり、これは強い理由はならない。